どんぐり雑感
読書室
山田風太郎
〜風来の人〜
昔、とあるマンガで読んだ文章が、とても気になっている。 気になる、というよりはむしろ、頭から離れないというか。 「人の財産の残し方にはランクがある。 『人』を残せばA、 『仕事』を残せばB、 『お金』を残せばC」 どうもこれを読んで以来、誰か名のある人が亡くなったときに、「この人は何を残しただろうか」とつい考えてしまう癖がぬけなくなった。 そして、ほとんどの場合、『人』という財産を残した人は、『仕事』という財産もまた残していることが多い、ということにも気がついた。 例えば、手塚治虫。石森章太郎。黒澤明。円谷英二。江戸川乱歩。 彼らに共通するのは、自らの仕事とそれにまつわる周辺の事象に対して、とても貪欲でありつづけた、ということかも知れない。 亡くなる直前まで仕事を続け、その評価にこだわり、台頭してくる若手の力に嫉妬し。 「年取っちまったなあ、アレはもうダメだろ」 「でも、まだやり続けてるんだよ、奴は」 そんなことを言われつつも、最後までペンやメガホンを離さなかった人々。 では、Bランクと評価される、『仕事』を残した人々はどうなんだろう、とふと考えた。 Aランクと言われる人々ほど、貪欲ではないかも知れない。 ただ、そのぶん『仕事』そのものが好きだったのかもしれないな、とも思った。 「もうすぐ死ぬだろう、あと千回くらい晩飯を食ったら」という文章を書いてまもなく病に倒れ、その後回復してからも、内外へむけて「もうすぐ死ぬと思う」と言い続けた山田風太郎。 彼の訃報を知った時、「ああ、とうとう」と思いつつ、冒頭に上げた「財産のランク」のことを思い出した。 山田風太郎が遺したものは、間違いなく「膨大な仕事」だろう。 奇想天外な忍法を使う忍者たち、緻密な考証と豊かな想像力で「山風史」とも言えるひとつの世界をつむぎ出した一連の明治物、市井の人々の風景を、さまざまな角度から切り取った推理物。 B級、あるいは通俗などと評価されつつも、ひたすら「その地位」にとどまって書きつづけた人。 親を早くに亡くし、青春時代に戦争という大きな嵐を通過してきた人は、飄々と「己の分」を貫きとおしてきた。 …風のように。 あー、なんだか感傷的な文章になってしまいました。 NTVの「知ってるつもり?」の特集を見たあとなもので…。 女子中学生がいきなり「忍法帖シリーズ」から、というのもどうかと思いますが、どんぐり2号の父親の書棚には、講談社の忍法全集がありまして。 それから断続的にン十年、氏の小説を読みつづけてきました。 星新一氏や池波正太郎氏の時もそうでしたが、「長いこと読みつづけてきた作家」の逝去は、覚悟があってもやはり、言葉を失ってしまいます。 もし、氏の小説を読んだことがなくて、それでも興味を持った方がいましたら。 リンクの部屋から「A Lockd Room Castaway」へお越しください。 山風マニアの方々が、かの方の膨大な著書と、今なお補完されていない雑誌掲載のみの作品について、熱く語っていらっしゃいます。 《補遺》 氏の死去と前後して、順次刊行されつつあった某社文庫の『山田風太郎ミステリー選集』。 別の某社全集がハードカバーで、個人的には資金的な問題がナニだったもので(ファンの風上にもおけぬ言い分ですが)、こちらをメインに攻めておったのですが。 『十三角関係』収録の「帰去来殺人事件」の帰趨をめぐって、なにやら色々とトラブルがあったようです。…作中で頻発される「ある単語」が、現在では放映や印刷に適さない、いわゆる『差別用語』に相当するのですが、その単語が謎解きの要にかかわってくるため、削除や言い換えができない…ので、初版のページ割りをいじくり、二刷以降「帰去来殺人事件」そのものを『ないことにする』というかなりアレな手段が使われたのだとか。 私は初版を買ったので気がつかなかったのですが、二刷ではたしかに、目次から作品が一篇減り、本そのものも、一ページあたりの行数が減っておりました(それでも、初版と二刷では50ページほどのページ差があります)。 これは出版社側の独断(および先回り)で行われたことなのだそうで、編纂に関わった方やファンなどから抗議が殺到し(当然のことですが)、2001年の年末は情報が二転三転していました。 現在三刷がすでに流通しているということで、四刷以降初版の形態に戻す、と発表されたことで、なんとか事態は収束の方向へ向かっているようです。 2002年1月上旬の段階では、まだ現物を見ることはできませんが、この発表がフェイクではないことを祈るばかりです。 |