どんぐり雑感
シネマ館
「スター・ウォーズ」
往年のスター・ウォーズ・ファンは、前作で落胆させられつつも、「まああと2作だから」と結局は観に行ってしまったのではないかと思う。考えてみれば、25年程のつきあいになる訳だから。 しかし今回の事前情報では、あまりいい声を聞かなかったし、前よりつまらないという声も多かった。もっとも、事前に悪いという評判を聞かなかった前作があの出来なのだから、結局一般メディアの評判はあまり気にしない方がいい。 というのは、もう30年以上前から判っている事ではあるから、気にせず見に行った訳である。 実際に観ると、確かに恋愛映画のパターンを踏襲した、観ているのが恥ずかしいシーンも多いが、とりあえずルーカスが意図して作ったのだから、まあ仕方がない。ジェダイの騎士なのに世俗の感情に流されていくという過程を強調したかったというのは、気持ちとして理解はできる。 もう少しなんとかできなかったのか、とは思うが、あの「タイタニック」がこのパターンで成功しているのだから、ある意味仕方のない事ではある。 でもスター・ウォーズ・シリーズは、出資者が自分自身なのだから、「今のアメリカ人に媚びる」必要はないだろう。いわば世界最大の自主映画なのだから、好きなようにやればいいのだ。 と思ったが、やはりルーカスはアメリカ人だ。現在のアメリカ人には、あれでいいと判断したのだろう。 それでも前三部作とのつながりがかなり強調されてきたので、少なくとも[エピソード1]よりはスター・ウォーズしていたと言ってもいいだろう。徐々に「なじみのある映画」になりつつあるのが感じられる。もちろんそうでなければ、次の作品につながらなくなるのだが。 ところで今回、映像的に一番笑ってしまったのはヨーダのアクションだった、あの動きは、ソニックじゃあるまいし、どうかと思う。高齢のクリストファー・リーが意外とがんばっていたのには驚かされたが、ヨーダの動きがあれでは、それでなくとも身長が高いリーとでは、ちょっとアンバランスであろう。 もっとも、こうした映像面での無理な描写というのは、[ジェダイの復讐]あたりから顕著になってしまった事なので、いまさら騒いでもしかたのない事だ。 それでも特に気になるのは、大物量戦闘シーンである。 そもそも、物量作戦にでた戦闘シーンは、実際であれば基本的に密集した戦闘などありえないのだが、映画ではどうしても画面に収めて見栄えがいいようにしなければならない都合上、密集してすべてを同時に見せざるをえなくなる。これは純粋に演出上の問題だ。 だから近年の特撮系戦闘シーンはやたら密集した感じになっているし、これが違和感の元にもなっている。 これが昔の戦争映画であれば、危険だという理由もあるが、広範囲に散らばった被写体をなるべく広角レンズを使用して収めたり、細かいカット割をして映像的に密な感じを出そうとするのだが、当然限界がある。 特撮における戦闘シーンも、CGI普及以前の光学合成では、重ねるフィルムの数にも限度があったし、そもそも時間や費用との兼ね合いもあり、あまりごちゃごちゃした映像は作れなかった。 ところがこれだけCGIが発達した現在、いくらでも合成ができるため、なるべく画面の中に収めてしまおうという欲求が簡単に達成できるので、映像センス的にはむしろマイナスになっているのではないだろうか。 昔のように「技術的には難しいから、色々考えなければならない」という事がなくなったのだ。 それでも、CGI、プロップモデル、スタント等、適材適所の使い分けで、だいぶ自然な仕上がりになってきた。つまり全体のカラーが均等になってきた事で、場面によって極端にギャップを感じるという事が少なくなってきた訳だ。 さて、次のエピソード3は、ダースベーダーの誕生なので当然暗い話になるはずなのだが、ルーカス自身は「あまり暗くならないように、希望の持てるエンディングにしたい」などと言っている。 これはつまり、[ジェダイの復讐]におけるルーク自身の終わり方になる可能性があるという事ではないだろうか。少なくとも雰囲気は同じになりそうだが、それでは同じ事の繰り返し、という事になってしまう。 いくらシリーズ物とは言え、進歩がないのでは、SF映画とは呼べないのだが。 そしてシリーズ物として、邦題をちゃんと「クローンの攻撃」という日本語にしたのはいいが、こうなるとエピソード1の「ファントム・メナス」はますます変な題名という事が強調される事になった訳だ。いずれボックスにする時は、無理矢理にでも統一した方が良いと思う。 これはこのシリーズが6作だと確定したのにもかかわらず、前作の題名制作でミスをしたとしか言えないのだから、例え反則だと言われようが、やらなければならない事だろう。
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