どんぐり雑感
シネマ館


「スター・ウォーズ」


スター・ウォーズ 特別編
(原題:STAR WARS
ジョージ・ルーカス監督作品
(1996年)

 映画の「リテイク」というものは、ある種とても魅力的な事なのかもしれない。

 普通100%完璧な映画というのはありえないので(映画は協同作業だからだ)、その監督にとって自信作であればある程、後々リテイクしたくなるのではないだろうか。さらに良い作品であればある程、他の監督からすれば、自分としては別の解釈で作ってみたい、という願望が発生するかもしれない(当然「リテイク」はできないから「リメイク」する。これに、アイデアをろくに出せない無能なプロデューサーの存在とあいまって、世の中はリメイクばかりになってしまう…)。

 で、オリジナルの[スター・ウォーズ]だが、これについては当時のルーカスにとって、できる限りの技術をつぎ込んだ作品にはなったけれど、やはり当時から技術的な点で不満もあったのは容易に想像ができる。そもそもこの映画は、ハリウッド映画界の基準からすればかなりのロー・バジェット映画だったので、予算面、技術面両方からの妥協も多かったらしい(それでもあの出来だというところが恐ろしい)。

 そこでルーカスは、スター・ウォーズの新作を作るにあたり、前三部作を「壮大なる予告編」にするべくリテイクしてしまうというアイデアを考えついたのである(当初の発想は、絶対そんなところだと私は思う)。しかもこれは「観客に金を出させて見てもらう予告編」という、前代未聞のとんでもない荒技であった(多分こんな事は今後、誰も真似できないだろう)。これもCGIの急激な進歩のなせる技である。

 映画作品として考えれば、たかが前の作品の手直しをしただけなのに(と言いきれる程、単純な話ではないのだが)、配給会社を納得させ、観客を納得させ、自分も納得させる、という、とんでもなくレアな事をして、しかもそれが評価されたのだから大したものである。まあ端的に言えば、「公開後20年もたってから、映像のリテイクをまんまと成功させた作品」という事になる。
 こうしてみるとルーカスは実に商才に長けている。もしかしたら監督なんかやっている場合ではないかもしれない。

 ちなみにこの作品が予告編だという根拠は、特別編はそれなりに面白く、次回作への期待が高まったのに、本編たる[エピソード1]は、観てがっかりの出来だった、というところにある。映画館で観る予告編と本編の関係というのは、だいたいそんな物である。

 とにかく、こうした経緯から作られた(と私が勝手に思っている)ので、内容については「リテイク以外の何物でもない」と言っても良い。些細な部分の変更はあるが、大筋において変化がないし、さらにはあってもなくてもどうでもいいような部分(私にとっては、だが)もあるからだ。そしてルーカスの狙いが1作目のリテイクにあったのは、他の二本の修正にあまり熱が入っていない事からも明白である。

 まあ、久々に大画面でこのシリーズを見られた事自体は非常に良い事だが、いくらデジタルでの修復で映像がパワーアップされていても、1978年に初めて映画館で見た時に「映像的には非常に感動している」ので新たな感動はなかった。以前も書いたがストーリー的には感動する要素はない。この手の作品で感動するのは演出のせいである。
 むしろ「おおっ、ここをこう直したか」とか「ここが直ってないぞ」という別の見方が成立してしまったのではあるが、やはり全体的に「別に無理して直さなくても良かったんじゃないの?」という感じもした。

 ただ、それでも私は修復した画面で一か所だけ「私としてはここを直して欲しかったんだよ。ルーカスも判ってるじゃないか」という場面があった。

 それはラストでデス・スターへ反乱軍が突入する時、Xウイング・ファイターが編隊で翼を展開するシーンである。以前は前後一列に並んで、順番に翼を展開していたが、特別編では、ランダムに飛んで、ランダムに翼を展開していく。実は昔見た時に、ここが一番気になっていて、ここを直したというだけで、私は映像的には満足している。寄せ集め部隊の集団である反乱軍の操る機体なのだから、この方が雰囲気としていいと思う。

 あと最大の弱点であるラストのデス・スターの大爆発については、これを直すのは当然だと思うし、まあ多少の修正はなされていたけれど、あまり効果はなかった。やはり元々の素材が悪いと、修正するにも自ずと限界があるという事か。
 しかしどうにも理解できなかったのは、なぜデス・スター内でのオビ・ワンとダース・ベーダーのチャンバラ・シーン(あえてこう呼ぶぞ)における、ライトセーバーのアニメートをまったく修正しなかったのだろうか。謎だ(と、当時は思った)。

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(文責・どんぐり1号)

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